過去への旅路シリーズ 最終編
- 2017/03/29
- 19:25

西表島での日々は、まさに夢のようでした。しかし、このまま旅を続ける訳にもいかないと、ずっと心の底で感じていました。カンピラ荘の宿泊者を、船浦港で見送ることも日課でした。女性陣の左がマドンナAちゃん(青森出身) まん中がカンピラ荘の長女Yちゃん 右がA子姉さん(金沢出身)です。右端がマグジョ(高知出身)です。「マグジョが突っ込んだ橋」の命名の張本人ですね。ちなみにA子姉さんは、その後、与那国島に永住した...
過去への旅路シリーズ19 西表島編パート5 我が青春のカンピラ荘
- 2017/03/19
- 18:48

西表島で3カ月近くも滞在したのは、島の素晴らしい自然に魅せられたこともありますが、何といっても民宿カンピラ荘の存在です。現在、カンピラ荘のある上原地区は、石垣島との定期高速船の港が整備され、スーパーマーケットやアパートも有り、ちょっとした町中と言ってもおかしくない環境です。しかし、1975年当時は、港も無く道路はすべて未舗装で、いかにも離島の集落といったおもむきでした。横から見たカンピラ荘です。ハ...
過去への旅路シリーズ18 西表島編パート4 ドクターコトー
- 2017/03/18
- 07:30

1975年秋の西表島の続きです。当時の西表島西部の診療所には、老医師が常駐されていました。元祖ドクターコトーですね。上は白衣を着ていますが、下は半ズボンですね。いかにも南の先生という感じです。カンピラ荘で長期滞在していた私たちは、別に病気でなくても診療所に遊びに行っていました。私の勝手な想像ですが、おそらく、先生は内地の病院で長年勤務されて、余生を西表島で過ごすために、診療所の医師になられたのではない...
餓鬼仏 ガキボトケ
- 2017/03/13
- 13:50

私の息子は、森林組合に勤めています。いわゆる山林労働者です。山の仕事は危険な作業が多く、無事に家に帰ってくると親としてホットします。息子の弁当箱を洗っていると、いつも一口だけご飯を残しています。息子に「なんでご飯を残すのか」と聞いたところ、「餓鬼仏のため」という返事でした。さらに、息子は山の先輩から聞いた話をしてくれました。「山で餓死した人間の魂が、成仏できずにさ迷っており、それを餓鬼仏という。山...
過去への旅路シリーズ17 西表島編パート3
- 2017/03/11
- 17:00

1975年の秋に、2カ月余り沈没したカンピラ荘の日々です。西表島でしか食べられない食材 その1 ヤシガニヤシガニです。ゆでて食べます。ヤシガニという名前ですが、ヤドカリの仲間だとか。ヤシガニは、主にアダンの実を食べているそうです。そのせいなのか、カニというよりも豚肉の脂身を連想させるような濃厚な味でした。脂肪分がとても多いので、食べ過ぎるとおなかを壊します。西表島でしか食べられない食材 その2 カ...
過去への旅路シリーズ16 西表島編パート2
- 2017/03/07
- 14:41

1975年の9月中旬から11月末までの約2か月あまり、西表島の民宿カンピラ荘ですごしました。滞在期間中には、島のあちこちに出かけました。その最たるものは、西表島横断の1泊2日の旅でしょうか。カンピラ荘で長期滞在していた仲間7人で、決行したのです。当時の西表島は、カンピラ荘のある西部地区と東部地区の間は、道路でつながっていませんでした。ですから、西部地区から東部地区に行くには、いったん石垣島に戻り、...
私のモトクロス時代 1982年
- 2017/03/04
- 11:09

モトクロス四国選手権に打って出た1981年は、全戦予選落ちという惨めな結果に終わりました。で、私は考えた。必ず予選があるノービス125クラスは避けて、予選がほとんど無い250クラスに転向するのだと。でも、そこには大きな問題がありました。それは、身長160センチ少々、体重も50キロそこそこの虚弱体質の私に、猛獣のような2スト250CCのレーサーが、乗りこなせるのだろうかという不安です。そんな不安を持ち...
過去のへの旅路シリーズ15 西表島パート1
- 2017/03/02
- 14:02

1975年先島の旅を続けます。私は宮古島から石垣島に渡り、その後、与那国島・波照間島・竹富島と回って、いよいよ西表島です。与那国島からの帰りのゲロ船だったのか、波照間島からの帰りの船だったのか、今となっては記憶があいまいですが、その船の中で西表島には、とても居心地の良い民宿があると聞いたのです。私は、その民宿の事を、その民宿でヘルパーをしていた、Aという女性から聞いたと記憶しています。しかし、それ...