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鳥島漂流記 その2

パート2は、八代将軍吉宗の時代に、21年間におよぶ日本史上最長の漂流記について要約をする。漂流した船の名は鹿丸といい、12人が乗り組んでいた。

鳥島漂流記
少し、見にくいのだが、小林郁氏の著作「鳥島漂流物語り」の最初のページだ。

鹿丸は1720年1月9日、房総沖で嵐にあい、56日間の漂流の後、鳥島に漂着した。江戸から鳥島までの距離は、約580キロだが、風まかせの当時の船では、途方もなく遠い島と言える。それを証拠に当時、鳥島は「めっぽう島」とよばれていた。めっぽう遠いという意味らしい。

そんな絶海の孤島に漂着した鹿丸の12人は、船頭の左太夫のリーダーシップのもと、鳥島で生き永らえるため様々な努力をする。しかし、船頭の左太夫は、11年後に亡くなる。残されたのは3人となった。

鳥島に漂着して以来、仲間を励ましてきた船頭が亡くなった後は、日本に生還する望みも希薄になる。その後の日々を過ごす事、さらに10年、残された3人は、鳥島に漂着した無人船の積み荷の籾を蒔き、わずかなコメを収穫したりしながら暮らす。

鳥島に漂着して以来、21年が過ぎようとした時、鹿丸と同様に漂流して小笠原諸島まで流された江戸大阪の船に助け上げられる。

3人を助けた江戸大阪の船は、宮本善八船という。この船も難破して小笠原まで漂流した。小笠原諸島に漂着したさいに本船が大破したので、伝馬船(今で言う救命ボート)で鳥島まで航海して、鹿丸の3人と出会う。宮本善八船の乗組員17人は、鳥島で3人を救助して、八丈島までたどり着き日本本土に帰還する。

17人が乗れば、沈みかけるような小さな伝馬船に、さらに3人を加える事に、宮本善八船の乗組員の中には反対もあったようだ。しかし、宮本善八船の船頭の富蔵や船頭補佐の庄兵衛が、同じ難破船の仲間という事で3人を乗せる。

3人は宮本善八船のおかげで、21年間の漂流生活の後、日本に帰る事ができた。そして、時の将軍吉宗に拝謁して、生涯安楽に暮らせる扶持米(年金)を与えられる。こうして、3人は短いながらも幸せな老後を送る事ができた。

鳥島漂流記を読んで、漂流者たちの助け合いの精神、大自然の脅威に対する畏敬の念、自然の恵みに感謝する思いを強く感じた。人間、極限状態になれば、助け合いもあり、その逆もありうるという事だろう。

その逆とは、戦争ではないかと思う。戦場では、敵を殺す事が使命であり、味方と言えども、自分が生き残るためには、殺しあう事もある・・・・・・脱線してしまった。

次回の鳥島漂流記は、たった一人で生きぬいた土佐の長平の事を書こうと思う。

*12月5日に一部を訂正加筆した。

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コメント

やはり興味深いです

こんにちは。
江戸時代で動力も食料もなく離島で暮らすのは大変なサバイバルですよね。自衛隊の特殊部隊がサバイバル訓練をやっている話を聞いたことがありますが比較にならない命がけの生活だと思います。580キロの船旅も当時の船ですから今の時代では自殺みたいな話だと思います。
興味深いです。

何を食べていたのか

さかやんさん おはようございます。コメントありがとうございました。
コメント頂いて気が付いたのですが、昔の漂流者たちは、鳥島で何を食べて生き残ったのかを、書いていませんでした。次回の漂流記では、その事を中心に書いてみますので、ご期待ください。

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